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麻依子1 制作中(1/5)
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麻依子1 制作中(2/5)
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麻依子1 制作中(3/5)
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麻依子1 制作中(4/5)
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麻依子1 制作中(5/5)
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第2回
麻依子1 (まいこ1)
油彩 F20号(72.7cm×60.6cm)
制作:2002年5月

 静物画を細密描写的に描いていた時期に思っていた。画面の中には、描きたい場所と別に描きたくないと感じる場所がある。例えば、テーブルの上の物は描きたいと思うのだが背景は描きたくないのだ。しかし、作品としての完成度を上げる必要性から全体を絵の具で埋めていた。それでも、やはり背景の必要性を感じないという思いが、黒い背景の静物画を生んだ。(同じように感じる静物画家は多いようで、黒い背景の静物画は比較的よく描かれているように思う。)
 しかし、この頃から気付いていたことがあった。それは、描きたい場所と描きたくない場所があるのではなく、私には見つめている物と見ていない物があるということだ。つまり私は、絵を描くということが先にあるのではなく、物の存在を見つめていたいという思いのほうが大きいのだ。物が存在している状態を、本当にリアリティーを持って造形的な視点で見つめていると、ひるがえって造形的にこだわれない部分は見ていないことがある。このことに薄々感づいていた。
 私のキャンバスの下地は、シルバーホワイトを塗って紙ヤスリをかけるという作業を2〜3度行なったものだが、ある日、描きたくない背景には初めから下地作りも不必要ではないかと考えた。そこで、生地のキャンバスに必要な場所だけ地塗りをする、という方法を採るようになった。
 この部分的に地塗りを施したキャンバスを使って静物を描いていたのだが、モデルを得て人物を描き始めた。最初の1〜2作は人物を静物画風に扱っている。当初、静物に比べて人物は描きにくいと感じた。つまり、静物のように描き進めようとすると、人物は動くという問題点にぶつかるのだ。その時面白いことに気がついた。今まで、静物は動かないものと思っていたが、あたりまえのことだが、静物も動いているということだ。例えば、1ヶ月もかかって静物を描いていると、その間には、少し埃もつもるし、扉を開閉する振動で、わずかだが動いていたりするのだ。それに、座り直すたびに微妙に位置は変わっている。どうも写実的に静物画を描くということは、それを知っていながら、動いていないと仮定していたのではないか。静物でも1ヶ月かかれば、その1ヶ月間のうつろいを描きとったことになる。それを、まるで写真のように一瞬の静止画として描きとるのは間違いではないか。そんなことを感じた。
 それで私は、人物画を描くときには、人物がじっとしている状態を再現してみせるのではなく、私が何日か何時間か人物を見つめていた、というリアリティーが出ればそれで良いのではないかと考え始めた。
 今回の絵は、次に100号程度の大きさの人物画を描こうと考えているので、そのエスキース的な意味合いを持っている。つまり私の絵は、結果的にスケッチ風に仕上がるのだが、そんな仕上げ方で100号が絵として成り立つのか少々不安があった。それで、いつもはほとんど描かない下書きを少し丁寧に施してみた。その結果、下書きは私の絵にとってはじゃまになることがよく分かった。つまり、その瞬間瞬間に人物を見ている、というリアリティーが損なわれるのだ。下書きが、描き込むレベルを示してしまうのだ。制作経過の写真ではあまりわからないのだが、途中に下書きを消すという作業がかなり入っている。
 この作品を描くことで、次回に予定している100号が少し見えてきた。たとえ100号であっても、なんらかの完成を示唆してしまうような下書きはやめようと思う。絵は描くものだという古い考えはやめて、ほんとうにものを見つめる視線のリアリティーだけを残してみたい。それが結果的に絵になるのならそれで良い。もし絵とは呼べないものになったとしても、それも作品なのではないだろうか。

2002年7月 大西弘幸
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