第1回 「なぜか?」の人
画家・大西弘幸ってこんな人?

(西宮美術研究所にて2001年3月20日)
山下
先生と知り合って12年程になるんですけど、
最初の頃の印象って
「ハッキリものを言う人だな〜」
という印象を持ちました。
当時の僕の周りには
そういう大人がいなかったので、
単純に圧倒されて「すごいな〜」と思った。
何でそんなに言えるのかなって、
その自信ってどこからくるのかが
知りたかったんですよ。
 
デッサンなどを勉強して感じていたのは、
それを通じて、
自分の立ち位置を明確にすることで
自信が持てて、物事を判断したりする力が
つくんだろうなと当時は思ってた。
 
話はとぶかもしれないんですけど、
最近仕事で外国人と話す機会がある。
よく「お前は何の宗教を信じているのか」
と聞かれて、ちょっと困るんですよ。
 
そこで逆に「どうしてそんなことを聞くのか」
と尋ねてみると、
例えば、ヨーロッパなんかで無神論者といえば、
それだけですごい立場なんですよ。
「何も信じていない」っていうこと自体が、
その人の立ち位置を示してしまう。
 
結局、宗教的なことっていうのは、
自分の立場を「僕はこういう者ですよ」
と宣言することなんだろう、
という風に理解したんですよ。
そこで、自分の場合は何を信じているのだろう。
先生は何を信じているのかなって……。

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大西
よくわからないけれど、
今のところは無神論者だと思ってる。
 
日本は、いちおう仏教国なんだろうけど、
葬式仏教というだけで、
自分が仏教徒だという意識は
持ってない人の方が多いと思う。

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山下
はっきり言えないですからね。

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大西
しかし意外と、実は何かの宗教の信者のような
生き方をしている人の方が多いような気がする。
具体的にキリスト教であったり、
仏教であったりというわけではないので、
自分でもはっきりとわかっていないだけで……。
 
私は、たまたま生まれた家は、
仏教の何かの宗派なわけです。
葬式仏教として。
そういう位置からすると、
自分は無神論者なんだけれども、
「どうなんだろう」と思った時期がある。
 
よく研究所でも言うんだけど、
私は、今も昔もずーっと「なぜか?」の人なんだ。
 
それで、世の中にキリスト教ってのが
あるって知った日から
じゃあ自分はなんなんだろうって、
やっぱり思った。
 
中学生のころだと思うけれど、
世の中にキリスト教っていうものがあって、
昔から家にあって、
葬式するための宗教ではなくて、
「あえて信じる」というものがあるんだ
と知った日から、
じゃあ自分は何なんだろう、と考えた。
 
考えていくと、「無神論者なんだ」と
いうところに落ち着く。
そう一旦落ち着いたら、
「本当にそうなんだろうか」
って今度は考えていく。
 
そんなわけで、ホントのホントは
まだわからないような気がするんだけれど。
とにかく、自分は無神論者なんだと思ってから、
今度は周りをみてみると、
さっきの西洋人の話じゃないけど、
案外と無神論者じゃない人の方が多い。

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山下
そうですね。

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大西
例えば、幽霊を見たとか見ないとか言うのも
一種の宗教だと思うし、
UFO見たとか見ないとかも
一種の宗教だと思う。
そんなものを信じるという神経は、
立派な新興宗教だと思う。
 
そう考えると、ホントの無神論者なんて
日本人の中でも少ない。
ヨーロッパの、ベースがキリスト教で、
日曜日には必ず教会に行くのが当然の
国の中での無神論者と、
日本人における無神論者は
きっと似たようなものだと思う。

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山下
その信じる度合いが、
向こうの場合はあるじゃないですか。
聖書とかでも、生活に対する影響力とかが
あるじゃないですか。
そういう部分で日本人をみると
形しかないというか、
よく言われるのが御飯の前に手を合わせると
「お前は仏教徒なのか」と言われるんですよ。
 
僕はだいたい宗教を聞かれると
「八百万の神って、便所にも色々な所に
神さんはいる」って答えるんですけど、
手を合わすと「それは仏教だろう」と
言うわけです。
 
で、日本の場合はもう形としてある。
その行動の本来の意味とかじゃなくて、
感謝の気持ちを形にしてるっていうか
仏教うんぬんじゃなく。

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大西
キリスト教の十字を切るというのも、
同じようなものだと思うよ。
我々には、なんでも切ってるように見える……。

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山下
まあ宗教の話は切っ掛けて……。
さきほど先生が言われたみたいに、
中学生の頃から持ってる、
何かあると知ったら「なぜか」と考える
という人格形成をしてきたっていうのは、
何を信じたからなのか、どういう立ち位置に
立ったからなのかなと。
 
同じ質問を自分にしてみると、
ちっちゃい頃からどういうものに影響された
のかとか、絵を描く切っ掛けとか
そういうところに話はいくんじゃないかなと
思っているんですよ。
で、先生はどんなものに影響されたんだろう
と思ったんです。

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大西
外からの影響ももちろんあるけれども、
まず、自分の内側のどこからきたんだろう
と考えると、一つは今言った「なぜか?」を
考える性格というのがあると思う。
 
もう一つは、今最初に
「はっきりとしたことを言う大人」
だって話があったけれど、
学校でこの3月まで約20年間居た
わけだけれど、
確かに本当にはっきりとしたことを言う大人は
少ないのよね。

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山下
中高はそうでしたね。

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大西
たまに、学校の中で何かに対して
はっきり言ったことがあるんだけれども、
非常に鬱陶しがられるのよ。
 
じゃあ何で私ははっきり言うんだろうと、
「なぜか?」と考える。
 
別に自分の性格がはっきりしてるからとか
そんなことじゃなくて。
自分の考えていることの良し悪しについては
はっきりと言う。
 
自分があまり興味がないものに対しては何にも言わない。
 
会議なんかで、学校の問題点がどうの
こうのについては本当に考えない位置に
立っているので、当てられたら
「バケツ持って廊下に立ってましょか?」
って言いたくなるくらい
何も考えていないんだけど。
 
ある教師が学校紹介のビデオを作った
っていって、上映会をやったことがあって、
私以外の殆どの先生は「すばらしいですね〜」
とただほめているのに対して、
ここの部分はもう2、3秒縮めたほうがいいとか、
ここの音楽は変えた方がいいとか、
いっぱい言いたいことが出てきて、
言ってしまうわけで。
非常に鬱陶しがられるという状況になってしまう。
 
これが一見さっき山さんが言ったみたいに
自分に自信を持っているから言っているように
見えるんだけど…。
 
また「なぜか」を考えてみると。

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山下
違ってくるんですね。

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大西
あのね……、
これも自分に対する仮説なんだけれども。
 
私はね「人と人とはわかり合えない」と思っている、原則的に。

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山下
あーなるほど。

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大西
大昔に某学園で、初めて教師になった時に
宴会があって、明確に覚えているんだけども……。
 
急に、あるクソ真面目な先生がやって来て、
「大西先生は人はわかり合えるものだと
思いますか、わかり合えないと思いますか?」と
聞かれたことがあってね。
 
まず、その人の真意がわからないわけ。
何のためにこんなことを聞いとんのか。
これ、ある種のテストなのかなという気もして、
4月のアタマやから。
教師としては「わかり合える」と答えたほう
がいいのかなと思って、「わかり合えると思
いますよ」と答えた記憶があるんやけど。
 
あらためて考えてみると、「わかり合えない」
という答えが私は出るのよ。
 
色々な人と話してても、
かなり親しい人と話をしてても、たまに
「何で、今自分が考えていることをわかって
くれないのか」って言われることがあって。
そういう経験を何回かしているうちに
「わかり合えないものだ」って思うのよ。
 
これは私の勝手な立場なんだけども、
わかり合えると思っている人は、
勝手にそう思い込んでいるんじゃないか
とも思う。
 
相手が今あんな暗い顔してるから、
こうしてほしいんだと考えて、
何かしてあげて相手に感謝してもらう。
これは勝手な思いすごしなんじゃないかなと
考えてしまう。
 
でもそうじゃない人から言えばきっと、
それぐらいは人はわかるべきだと
思うんだろうけど。
私はわからないと原則的に思ってて。
そうするとね、かなり言葉なら言葉を使って
言わないとわからないと思っとんのよ、
でも、言葉もあまり信じてなくて、
10言っても2くらいしか絶対伝わってない
と思ってるねん。
だから言えることに関しては、
はっきりと言う。

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山下
なるほど。

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大西
それでも伝わっていないだろうな〜と
どっかで思ってて。
 
それがどこか基本的にあるんで、
何か自分がはっきりと言葉で言える場面では、
思ってることをかなり正確に伝わるように、
厳密にはっきり言うという癖があるみたい。
 
それが非常に明解にものを言うようにみえる
場合があるんだと思う。
だから逆に「わからない」ということも、
これは「わからない」んだとはっきり言わないと
伝わらないと思っているから、
「わからない」とはっきり言ってしまうこと
になる。
 
そんな気がする(笑い)。

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