第2回 自分が知ってるものなんて たかが知れている
デッサンから、マンガまで♪

(西宮美術研究所にて2001年3月20日)
山下
僕らが、デッサンなりの勉強するうちに、
理解していくことってあるじゃないですか。
自分のデッサンに関して、講評を通して、
先生の行動を見ていて思うところは沢山あって。

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大西
今、話しながら分析してみるんだけど。
何で「わからない」と言うのかというと……。
 
本当は、自分が何者かを「わかりたい」という
思いがあるような気がする。
 
まあまあわかってるものを「わかってる」こと
にしてすすんでいくと「わからなく」なってしまう
ような気がするのよ。
だから前からよく言っているように、
「わからない」ことをはっきりさせていかない
かぎり、理解できないものがある……。
だから、かなり厳密にはっきりさせていこう
という気があるみたい。
 
「自分に降りていく」という言い方をよくする
けれども、自分が「わかっている」ことは
これだけなんだと、まず、はっきりさせる。
それが見えないと先に行けないような気がしてね。
どうも、いわゆる世の中とか、大人の世界っていうのは、
それを曖昧にして生きていく世界
なのかな〜と。

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山下
ま〜、駆引きとかあったり、するんでしょうし。

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大西
社会っていうのは、社会人としての付合いっ
ていうのはそんなものかも知れないね、
だから、それにはむいてないんでしょうな。
(笑い)

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山下
そうなんでしょうね。(笑い)
結論的には、そういうふうに社会的に言えば
意固地というか、本当に小さい頃から、
そんなふうに考える人だったんですか。

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大西
よくわからないんだけど、
そうなっていった一番の理由は、
まず自分が生まれた周辺が嫌いだった
っていうことが大きいだろうな。

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山下
そうなんですか。

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大西
私が生まれたのは漁村でね。
生まれた当時は親も漁師をしてて、
周りは漁業に携わる人ばっかりで、
近所の同級生たちは皆、将来は親のあとを
継いで魚捕ることだけ考えてる。
いわゆる芸術とか文化なんてものは
まったくなくて、
今から思えばそれがものすごく嫌だった。
だから、何がどう嫌なのかと言うことを
はっきりさせるために、ある種の分析癖が
できてきたのかもしれないな。

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山下
「何で嫌なのか」を切っ掛けに。

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大西
そうそう。自分がなぜか嫌だと思ってる、
じゃあどういう事なら嫌だと思わないのだろうか、
なんてことを考えていく癖がこの頃に
できたのかもしれない。
 
これもよく語ったことだけれども、
私が美術に行くきっかけとか、
音楽に行くきっかけの一つは、
周りにいる同級生のしないことをしよう、
というのがのがあった。
 
すごい嫌な場所であり、
嫌な同級生達だったから、
彼等が興味を持たないものに興味を持とうと……。
だけどその頃の自分にとっては、
その場所が世界のすべてな訳だから、
その世界に無いものなんて考えようが
なかった……。
だけどその時に、ずーと「何かもっと違うものが
あるはずや」って思い始めた訳ね。
 
今でも考え方は同じで、
今、自分が知っている世界以外に
何かがあることをはっきりさせようと思うと、
この知っている世界がいったい何なんだろう、
ってことをはっきりさせていかないと外は
見えてこない、という現象が起こるや
ないですか。
そのへんから、全部きてるんじゃないかな〜と。
 
そんな思いが端的に出た音楽の場合を
話すと……。
音楽はね、自分の周りのすべての人が、
当時テレビやラジオで流れてはやっている
歌謡曲を聞いてる。
だったらそれは聞きたくない。
まずそんな反応から始まる訳ね。
自分とは人種が違うと思っている同級生たち
が聞いている、あんなクズみたいなものは、
まず聞きたくない。
反面教師と見ている親が聞いている演歌とか、
あんなものは聞きたくない。
だから、私は「音楽なんて大嫌いだ」というのが
原点にあった。
ところが、「音楽は大嫌いだ」という思いを
持ちながら同時に
「音楽ってこんなんじゃないと思うんやけどな」
って、ずーっと思ってた。
だけど、自分の知ってる世界は今はここだけ
だから、その世界にないものは知りようがないわけやん。
ずーと、「あんなものは大嫌いだ」と、
だけど「違う」というのがあって。
それが、中学校の1年か2年かの時に、
本当に偶然ベートーヴェンを聞いて、ホンマに
「これを聞きたかったんだ!」と思ってね。

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山下
出会ったわけですね。

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大西
その経験がね、自分が知っているものなんて
たかがしれているとか、
それ以外の何かを見つけなければ
ならないとか、
知りえないことは、自分の知っていることを
分析して、はっきりさせることによって
ある程度見えてくる……
そんなふうに考える癖が、その時期にできた気がする。
そこが原点だったんだろうな。

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山下
大きいことですよね。
僕なんかは、周りとか、自分の環境に対する
疑問っていうのは、あんまりもたなくて。
恵まれているのかも知れないんですけど。
先生は、現実の自分の世界を意識せざるを
得ない状況だった。
 
「世界」って言葉は キーワードになると
思うんですけど。
 
僕の場合は「世界」っていうと、テレビとか
マンガとかそいうものでしか、感じることが
あまりなくて。
逆に言うと、野放しで、
自分の現実の環境を考えることよりも、
もっと色んな情報とかあって、こんな
マンガ読んだとか、こんなテレビ番組を見た、
とか1つ1つの世界の中で遊ぶ
っていうのが「世界」だと思っていて。
 
自分の世界の状況に気付くのは、
高校生ぐらいになってからなんです。
情報があって、色々な選択があって、
その中で遊んでいれば、
それなりの充実とかあって
絵を描く切っ掛けとかも僕の場合は
完全にマンガなんですよ。

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大西
私もマンガですよ。

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山下
そうなんですか。

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大西
マンガなんかもね……。たぶん、山さんなんかは
住んでる場所が比較的都会だから、
違和感なかったんだろうけど……。
私はさっき言ったように周りが漁村だったから、
マンガを読んでも凄いギャップを感じた。
言葉が違うってことなんよ。
マンガは標準語で書いてある訳。
周りで喋っている言葉と全然違う訳よ。
何かわからないけれども、
私は自分たちの喋っている言葉の方が
間違ってるんじゃないかと思ってた……。

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山下
マンガじゃなくて現実の方が。

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大西
マンガを通じて、私、標準語を勉強してたもん、
かなり真剣に。
アクセントは勿論わからないけど、
言葉としては……。
今だに、時々何処出身者かわからないって
言われる。

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山下
僕もそうなんですよ、
僕の場合は影響を受けすぎるから
なんですけど。

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大西
かなり意識的に言葉を勉強したね。
後に純粋な関西弁の方も落語で
勉強しなおすことになるんだけれども……。

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山下
生まれ育った場所の影響とかじゃなくて、
学んだって感じがあるってことですよね。

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大西
そんな意識がマンガにはあったな。
私もマンガがスタートで、絵に関しては
マンガを描くのがスタートになるのかな。

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山下
誉められたんですか? うまかったんですか?

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大西
まー、うまかったと思うよ。
私は親が嫌いで、ホントにひどい親だと思うけど
私が描いたものは、何一つ残ってない。
本当に残念なんやけど、当時描いた中の
いくつかは、今の自分が判断しても、
本当に凄かったんちゃうかなと
思うんやけどね……。

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山下
先生の頃は手塚さんがやっぱり。

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大西
うん手塚さんですね、手塚さんの全盛期ですね。
鉄腕アトムの連載が始まって数年って時期
ですからね。

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山下
その辺の作品の違いもあって僕らの世代とは
違うもの見てきてはるっていうか、
先生なんか原子力って良い力なんでしょ。

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大西
原子力って言葉は、鉄腕アトムで入ってるから、
良いも悪いもなくて……。
後にできる、原子力発電所っていうのは別物
として入ってる。
だから、原子力って言ったら鉄腕アトムやね。(笑い)

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山下
(笑い)。
そういう、すり込みって影響ありますよね。
マンガって大きいですよね、僕なんか、
ずーと「世界っていうのは作りうるものなんだ」
って思ってて、それに最初に出会うのがマンガ
じゃないですか。
絵が描けて、物語が作れれば、自分の世界
みたいなものが作れるんだって、気付くことで
ワクワクするじゃないですか。
で、実際作れるのかって言ったら疑問
なんですけど。
雑誌なんか読むと、
10通りくらいの物語があって、
10通りの世界があって、
というのを読んで育ってきて、
もう教科書なんですよねー。
 
自分の考えや、ものの見方って、
意外とマンガとか、
テレビとか、そういうものの方が、
自分にとって教科書的な要素を持っていて。
先生の場合、代表的なもので影響をうけた
「これだ」って作品はあるんですか?

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大西
そういうのは、また不思議なことでね。
マンガに出会うのは、
小学校の2年生なんだけれども。
その時もたまたまお年玉とかためてて、
ある程度たまって本を買いに行こうと
いうことになって……。
その時の自分のもっていた本を買うという
イメージは、普通の単行本だったような気が
するのよ。誰に連れて行ってもらったか、
定かでないんだけども。
親だったか、お婆ちゃんだか……。
本屋さんに行って、
初めて選択肢にマンガが登場するの。

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山下
その時まで知らなかったんということですね。

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大西
雑誌のね、付録たっぷりの。
実際本屋に行ってみると、
単行本は物凄く難しそうに見えた。
雑誌のほうが楽しそうなんで、
そっちを買ってもらった。
あれがもし単行本だったら、どうだったんだろう
って思いがある……。
山さんが言うマンガが世界だったって
いうよりは、世界の選択肢の1つだった。
マンガから100%の影響を受けた訳では
なかったなー。

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山下
色々ある中の1つだった。

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大西
そう、選択肢としてのマンガがあった
って感じかな。
まー、マンガ本からは、
手塚さんには影響受けたけども。
そう、受けたといえば受けたかな。(笑い)
後にマンガ家を目指すからね、しばらく。

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山下
マンガ家目指すっていうのは、
「自分を持ちたい」っていう欲求なんでしょうね。

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大西
かも知れんね。

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山下
明らかに僕はそう思ってて。

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大西
あの頃に、物凄く影響受けたといえば、
もう亡くなったけれども、石ノ森章太郎さんが
書いた、当時は石森章太郎さんだったけど、
「マンガ家入門」という本があって。

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山下
あーありましたねー。
マンガ家を目指す人は必ず読んだと言われる。

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大西
あれが出版された時は、あれは凄かったねー。
衝撃的な影響を受けたね。
出たばっかりの時に、飛びついたんだけども、
何か当時初版を買うのが嫌で、
間違いが多い気がして……。
数日待って、再版になってから買ってしまって、
今だに悔やまれるけど。

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山下
そんなことまで、当時考えてたんですね。(笑い)

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