第6回 沈 黙
寡黙な画家たち♪

(西宮美術研究所にて2001年3月20日)
山下
非常に「視る」にしろ「聴く」にしろ、
感動っていうか……感覚的にとらえれるものに
出会うと……。
 
いいコンサートだと、どうのこうの言うより、
音に出会う、圧倒的な音に出会う。
ものを作るって、こういうことかなって
思うんです。

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大西
我々には、言葉的な感動の伝える方法は
わりあいあると思うんだけど、
言葉じゃない感動に出会いたいんだろうな。
でも、あんまり出会ってないから、
自分で自分のためにやってるのかな〜。(笑い)

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山下
あまり出会わないですけど、
フェルメールとか伊藤若仲を視ると、
さすがに思うところがありますよね。
三尾先生にしても……。
 
三尾先生の絵を初めて視たのは、
フォーカスの表紙だったと思うんですけど、
その時は「何で外人なんだろう」とか
「何で裸なんだろう」とか思ってたんですけど。
大学に入って、展覧会場で作品を視ると
そんな思いはぶっ飛んで、姿勢と言うか……。
絵の後ろに人(三尾先生)が立ってて、
しゃきっとしてる姿が漂うんですよ。

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大西
三尾さんっていうのは、
計算ずくで視覚的感動を作ろうとした人やね。
画家自身が視覚的に感動してるんじゃなくて、
それを作ろうとした人のように思える。

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山下
ある種の画家の姿勢が見える人って、いいな
と思ってしまうんですよ。
先生にとってのワイエスにしても、
生きる姿勢といのが……。

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大西
ワイエスなんかは、おそらく人前で喋れない
人のようだし。
自分が語らないで済ませられる要素を、
絵にしてるというか、
そんな気がする人なんだけど。
ワイエスの絵って非常に静かなんよね。
語らない人が、絵で語ってしまうというより、
もう言葉はなくてもいいやっていうのが、
絵にあってね。
あの人の絵は、ある程度演出的であったり
するんだけど、何かを説明するのにそれを
使ってるのではなくて、こういうのを見たいし、
描きたいから見てくれたらそれでいいって、
感じがあってね。
全然、言葉を発しない良さかなー。

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山下
いいなと思える絵って、
沈黙を感じさせるものが多いですね。

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大西
そうやね。
饒舌な作品もあるやんか、
世間では非常に人気があるけど。
あんまり好きではないのが、
鴨居玲でね、饒舌すぎてね。

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山下
ちょっと、説明的な匂いがしますよね。
うーん、絵画って言うより、演劇に近いと思う。

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大西
そう、演劇に近い。

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山下
舞台設定して、ここから登場してくるとか。
闇から登場するとか、劇的に設定されてるとか。

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大西
何かを語ってしまう絵っていうのは、
あんまり好きではないのよね。
語らない絵が好きなのよね、
ワイエスもフェルメールも、そこがいいなー。

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山下
空気というか、静けさが、
音に一番近いのかもしれないんですけど、
そういう空間を持ってる絵というのが……。

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大西
あのー、語らない人の絵っていうのは、
きっと画家がもともと言葉で絵を考えて
ないのよ。
言葉で考えた絵っていうのは、語るのよ、
うるさいのよ。(笑い)

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山下
こんな風にみてください……って。(笑い)

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大西
こうでないと……とか。(笑い)
 
三尾さんの絵が、あれだけ計算ずくで、
うるさくならないのは、計算は視覚なんよね、
言葉では計算してない、だから静けさが漂う。

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山下
日本画の面白い人達も、
そういうところがあって、静寂さというか、
本当に観察だけの絵っていうか、
若仲にしても、現代の人でも。

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大西
観察するだけの良さっていうのは、
わかってもらいにくいんやろなー。

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山下
自分の立ち位置って話に戻すと、やっぱり、
観察者であり、記録者であるのかなーと。
 
記録する方法が筆だったというか……。
楽譜なのか何なのかは色々あって、
観察することなのかなーと、
そこで入ってこないものは入ってこないし、
入ってくるものは入ってくる。
 
そういうスタンスをとることが、前に言った、
自信があるってことに繋がってくるんでしょうね。

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大西
そうそう、はっきりしてるものははっきりしてる。
はっきりしてないものはしてないと。
(笑い)言わんとしゃーない。

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