第2回 「見る」行為の構築

 静物画を描いていた頃は、画面全体に緊張感を持たせるために隅々まで描いていたのだが、人物を描くようになってから、「絵」というモノを仕上げるというスタンスは無くなってしまった。静物や人物を、「描く」ために見るのではなく、「見る」という行為そのものが目的であることに気がついた。「見る」行為を構築するために「描く」という手段を利用している、そんな気がしている。
 現代においては、もう少し具体的に言うなら写真登場以後、絵画は「見る」という行為の構築に最も適した方法として存在し得るのではないだろうか。
 「描く」という行為と「表現」するという行為を極限近くまで高めることは、ピカソと彼に続く作家たちによってほぼ成し遂げられた。しかし、現代の美術における価値観のひとつと言える「見る行為の構築」は、あまり考えられてこなかったように思う。
 ピカソ以後「考え方」こそが新しい美術の価値観だとして登場したはずの「現代美術」は、結局はピカソらの「描く」行為や「手」の作業の実験だけに注目し、その後を疑問も持たずに追いかけている。その意味においては、なんともアカデミックなもので、とても「現代」的だとは言えない。手法をアラカルト的にいろいろと繰り出してくることで、非常に斬新であるかのような印象を与えようとしてはいるが、新しい(ように見える)モノを作り出していくという考え方は、ピカソやその周辺の作家たちによってある程度完成を見た方法論と、何ら変わるところがない。その根底には、美術とは「表現」をすることだという古くからのアカデミックな考えが横たわっていて、この点からは決して踏み出そうとはしない何とも古めかしいものだと言える。
 現代において美術とは「考え方」なのだ。しかし、目先の表現方法を変化させるだけで、それを「考え方」のように見せかけている現代美術作品のなんと多いことか。「考え方」そのものに向かっていないものを、19世紀以前ならともかく、今日では「美術」と呼ぶことはできない。
 現在ひとにぎりの画家たちによって、写真を超えた細密描写が展開されている。それは、絵画による「見る行為の構築」の解答の一部を担っているようにも見える。しかし、残念ながらそれらの細密画は「見る」行為そのものを構築しようとしているわけではない。写真が一瞬の定着であるのに対し、細密描写は長い時間をかけて全てを観察し、画面上に時間の蓄積をしてみせることで、それがまるで「見る」行為の表現であるかのように、少し安易に結論づけているように思える。見る行為を構築していくということは、ただ時間をかけて全てを観察すればいいということではない。
 現在ひとつの運動として(かつての印象派やキュビズムがそうであったように)その居場所を確保している「現代美術」の作家たちからは、絵画はまるで過去のもののように思われ、まして写実絵画などは全く時代遅れのもののように言われることがあるが、それはただ、いわゆる「現代美術」の作家たちが絵画における現代を考えることを放棄してしまったに過ぎない。写真登場以前の画家たちは決して考えることなく、ピカソもやり残し、「現代美術」の作家たちは考えるのを放棄したためにまったく思い至っていない「見る行為の構築」は、非常に現代的な価値観だと言える。
 「見る行為の構築」作業によって結果的に「絵画」という形式に留まった絵画は、現代の細密表現も含め、写真登場以前から為されてきた「絵画」というモノを作る目的で描かれた絵画などと、見かけはほとんど変わらない。つまり「見る行為の構築」は、作品制作の方法論としてあるのではなく、「考え方」を示すことそのものを作品とするという点で、現代における「美術」の定義を、いわゆる「現代美術」よりも明快に持っていると言うことができる。

2002年6月 大西弘幸

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